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  • 執筆者の写真MASSATTACK(マサタック)

DAY 1

更新日:2020年12月15日

学年で言うと高校2年の時に日本のお世辞でも勉強が出来る(偏差値が高い)学校ではない男子校の高校を色々な理由で辞める事になって、他校で出来た彼女とも振られて別れる事になって、自暴自棄になっていた自分が日本を離れて海外にとりあえず行ってみたいと思うことはごく自然だった。


当時は中学生の時の友人達が他の高校で勉強やスポーツでの活躍、プライベートでも彼女が出来たりとかで、とても輝いて見えて、それを心の中で妬んでしまうぐらいだった。このままじゃ自分はめちゃくちゃつまらない人間になってしまうんじゃないか、とさえ思った。たまに会っていたそんな友人達と会ってる時でも、顔で笑っていても、孤独感が半端なかった。


ただ、すぐ海外へ行く勇気があったかと言えばなかったと思う。その証拠に元々在籍していた高校を辞めたあと、友人達が通う学校への編入も考えて、父親が何度も色々な学校へ頭を下げに行ったりしてくれたりしてくれていた。父親のその時の気持ちを考えると、今でも本当に出来が悪くてごめんと、胸が詰まり申し訳ない気持ちで一杯だ。

結局、結果は冒頭で話した通り勉強が全然できてなかったり、日本の高校自体そんな簡単に編入とか出来なかったので、千葉や埼玉、大阪や福岡など様々な学校に編入のお伺いを立てたがダメだった。

これ以上、頭を下げさせたり家で何もしていないのは無理だと思った。

時間は確実に過ぎていく、焦った。

海外ならどこだろう?とかを当時はネットもないので、自分なりに乏しい情報網で調べてオーストラリアかなと最初は考えた。理由は日本人に優しそうという理由だけだった。笑

でも、決断するには自分には何か他に理由が必要だった。

その時に中学の時に色々な賞をもらった陸上競技を自分の大義名分にしようと決めた。

当時の陸上界での大スター、カールルイスという選手が居て、彼が所属するサンタモニカトラッククラブというところに日本人初の所属になり、オリンピックに出てやると、みんなを見返してやるとそう心に決めて海外行きを決断した。

決断してからは誰もいない自分が在籍していた中学校に夜忍び込んで練習したり、横須賀の陸上競技場へ行って練習したりしていた。その間にアメリカの学校を駒場東大前にある図書館で色々と調べたりもした。


海外旅行なんて行ったことがない家だったし、両親も英語はまったくわからないし、息子は英語どころか何かを習得するにも人より時間がかかるし学校なんて見つかるのか不安だった。そんな中、マサチューセッツ州のある高校なら入れそうだった。


だが、それにも条件があった。

当時日本では高校2年生の扱いでアメリカの高校は9月から始まりの3月末終わりの区切りだが、そのまま高校2年生で入っても、それでも日本の学校よりは遅い卒業となる。が、それはしょうがないかと思っていた。

だが、学校側からは「1年生からはじめてください。それじゃないと受け付けません。」と連絡が来た。理由としては勉強があまりにも出来ず、もちろん英語もまったくしゃべれないからだ。とても悩んだ。理由としては当時漫画でろくでなしブルースというのが流行っていて、その中に出てくる輪島というキャラクターがいるのだが、彼は20歳の誕生日を高校で迎えた。その漫画を読んでいた時は普通にこんなやついるのか!っと笑って読んでいたが、実際自分も高校生の間に20歳の誕生日を迎えることとなるからだ。

1週間ぐらい悩んだが、特に失うものもないし1年生からまたはじめることになった。


向こうの高校へ正式に入れるかも、まずはその資格があるかを見られる。

学費が払えるのか?だ。海外の高校は当たり前の様にチェックしてくる。

ウチの家はそこまで裕福じゃなかったので、銀行の中に学費分ぐらいは支払えるという証明を見せるために親族達等からお金を借りて銀行口座の証明書を作ってくれてた事も後から聞いた。


そして、正式に高校へ行ける事が決まった。

しかし学校に慣れる為にその学校へ行く前にSummer School(サマースクール)という

補修学校へ行く事も条件となって、マサチューセッツ州の高校の前にペンシルバニア州の高校へ行く事になった。


そして、1994年の夏いよいよ初の海外、アメリカへ出発する事となった。

中学の時の友達(みんなのあの時の顔を良く覚えてる)が横浜駅の成田エクスプレスの所まで来てくれて、見送ってくれた。あの時は悲しいのか寂しいのか、本当に自分でもよくわからかった。ただ友達と離れのるが少し寂しい感じがした。みんなの顔もそんな風に見えたからだと思う。


そして両親が最後に成田空港で何も言わずに手を振って笑顔で見送ってくれた。

エスカレーターを降る途中で二人の顔も見えなくなった。いよいよ一人だ。

もう進むしかないんだなと思った。


飛行機はシカゴ経由でペンシルバニア(フィラデルフィア空港)へ、

人生はじめての飛行機だ。機内食は普通に美味しく食べた。

英語のアナウンスだから何を言ってたかわからない。何かガヤガヤ言ってるなと感じた。

そんな中シカゴ空港へ到着。段取り的にはその後、フィラデルフィアへの飛行機のはずだった。


だが、カウンターらしきところ行ったら、バツと手をやっているスタッフがいた。

英語はわからなかったが、どうやら飛行機が何かのトラブルで今日は飛ばないらしい。右も左もわからない初の海外のアメリカでどうしようと思っていたら、その航空会社がホテルを用意してくれて、とりあえず何もわからずにスーツケースを持ってそのホテル行きのバスらしきものに乗り込んだ。着いた時に感じたのは、どうやら本当にホテルだ。だ。

次の日の朝の飛行機だからその日は緊張しながら早く寝た。鍵は何度も閉まってるかを確認した。そして無事に次の日に迎えのバスに乗り込んで国内線でフィラデルフィアへ無事到着してサマースクールの先生のお迎えが来た。


サマースクールは日本人も何人か他に台湾人や韓国人の生徒やエジプト人、ドイツ人の生徒もいて、とても楽しかった。やっと何かがスタート出来たような自信が少し芽生えた気がした。


2ヶ月強のサマースクールを終えて、9月の頭いよいよ正式な高校へ向かう日が来た。

他の日本人や他の生徒達はみんな別の州や場所が違う高校だったので、そこでお別れだった。空港まではサマースクールの女性の先生が送ってくれた色々と話しながら、少しでもアメリカ人の英語に慣れようと話すようにしてたが、ドコンガン!っと車が急に左に曲がって森へ突っ込んだ。事故だ。結局その日は空港へ行けずだったが、翌日は無事に高校へ到着した。

空港へ迎えに来てくれた高校の先生も笑顔で大変だったねーと迎え入れてくれてホッとした。先生は「もうオリエンテーションがはじまってるから、マサも準備出来たらすぐ参加してよ!」と言われた。オリエンテーションが何かはよくわかってなかったが、どうやら学校の授業が始まる前にみんなで仲良くなって、少しでも居心地良く過ごしてもらえる様にという図らいで、野外でハンバーガーやバーベキューやジュースやお菓子などを振る舞ってみんなではじめまして!をする会の様だった。一人だけ1日遅れで到着した自分はもう仲良くなってるみんなを見ていてちょっと不安だった。とりあえず自分の寮の部屋にスーツケースを置こうと思い学校へ入る時に「日本人ですか?もし、あれだったらスーツケース一緒に運びますよ!」とかなり素敵な人が話しかけてくれた。







DAY 2へ続く。



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